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グリベルオリジナル山野井泰史インタビュー動画『無心』はこちらから
         

山岳ガイド古畑隆明氏のYouTubeチャンネルで山野井氏、古畑氏、植田氏による2023年インドザンスカールR24峰挑戦の記録動画が公開されています。この記録動画はこちらでご覧になれます。
         
  一枚の写真から

 
         
 
       
 
         
   

最後に向かったのはコロラドのブラックキャニオンです。日本人クライマーには馴染みのない場所です。渓谷と言えばクライマーだとヨセミテ、また観光客だとグランドキャニオンが有名ですが、ブラックキャニオンもスケールこそ小さくなりますが、それでも渓谷は高さは600m、荒々しく迫力があります。ここではキャンプ場が大地にあるので、アプローチは急な谷を毒草に注意しながら谷底まで降ります、それから全力でのクライミング開始です。そして疲れ果てて登り切った場所がテント場になるのです。

 
         
 
       
       
 
         
   

次に訪れたのはユタの砂漠に聳え立つ岩塔です。伝説的なクライマーのレイトンコアの写真集を見て以来、いかにもアメリカ、と感じさせるこの地でのクライミングを憧れていました。摩擦の利く砂岩にナイフで切ったような真っすぐなクラック、僕らはビルのような岩をたくさん登りました。岩塔の頂上には、登頂を記載するノートが入っている金属製の箱が置いてあることもありました。そんな時は僕らも名前を書きました。心残りは、頂で1泊して朝を迎えたかったということです。

 
         
 
       
       
 
         
   

2006年は妻とアメリカ各地のマルチピッチのクライミングに出かけました。最初に訪れたのは、アメリカの友人が以前から薦めていたワイオミングのウィンドリーバーです。多くの野生動物が生息する大きな山岳地帯に花崗岩の岩壁がいくつも並んでいました。クライミングも素晴らしかったですが、特に印象に残る出来事は、遡上していたマスをたくさん食べたことです。現場に居合わせたアメリカ人は僕らが網も使わずに捕まえていることにまず驚き、さらに指の無い手で魚を捕まえている妻の姿に驚愕していました。

 
         
 
       
       
 
         
   

2005年7月、60キロの荷物と共に再挑戦しました。悪天候と厳しい登攀で肉体は限界近くまで追い込まれました。強い雨で下着まで濡れてしまっていたので、寒さで眠る事はほとんど出来ませんでした。しかし諦めようとは一度も考えなかったのです。そして登攀開始から7日目ついに登り切ったのです。深い霧と静寂に一人で包まれながらクライマーとしてまだ未来が残っている事を感じていました。ルートの名前は「加油」としました。知人の中国人が「がんばれ」を意味する加油(ジャイオ)を僕によく言っていたからです。彼が撮影した写真は現在でも良く使われています。

 
         
 
       
       
 
         
   

日本に戻り、ポタラ北壁への再挑戦のためトレーニングを繰り返しました。残された指でいかにして岩を掴むか、またアイスアックスの振り方も考え直さなければ氷に刺さらないことが解りました。日々試行錯誤した結果。八ヶ岳の垂直の氷を辛うじて登れるようになり、僅か1本ではあるが5.12のグレードの付く岩を登ることに成功。奇跡でも起きない限り、再び5.12のルートが登れるようになるとは思っていなかったので感激は大きかったです。

 
         
 
       
       
 
         
   

2004年の夏、50キロ近い荷物と共にポタラ北壁に一人で挑戦しました。クライミング能力が落ちたとはいえ、今までに身に付けてきた多くの大岩壁経験から、登れない壁ではないと思う一方、せっかくギャチュンカンから助かったのだから、無理をして寿命を縮めるような事をしなくても良いのではとも考えていました。連日の雨と雪、凍傷になりやすい手を守るため、ゴムの手袋を用意してきたものの、指の感覚は鈍り、苦しい荷上げで体力は尽きました。登攀を諦め下山した僕は、翌年また挑戦しようと決意しました。クライマーとしてまだ死んでいない事を自分自身に証明したかったからです。

 
         
 
       
       
 
         
   

中国、四川省ミニヤコンガ近くのトレッキングは途中で歩けなくなったら馬でも使おうと考えていましたが、靴下を血を滲ませながらも無事歩き通すことが出来ました。旅の後半、期待もせずにガイドに持ってきた岩の写真を見せると、返事は簡単で「場所を知っている、見に行きましょう」でした。車を2日間乗り小さな谷に入ると、そこはまるでヨセミテ渓谷のようでした。そして現れたのが2年続けて挑戦することになる美しく切り立ったポタラ北壁でした。北壁のため日は当たりませんが、真っ直ぐに伸びるクラックが稜線に向かっていたのです

 
         
 
       
       
 
         
   

2003年の秋、友人に誘われ中国の四川省に旅行に出かけました。のんびり山を眺めながらトレッキングでも出来たらと考えていたのです。その際、一冊の小さな本を持って行きました。それは登山メーカーのグリベルが1998年に編集した山や岩を載せた写真集でした。そこに一枚の大岩壁の写真がありました、説明はNAO YUI YAI CHINA、ただそれだけでしたが、中国人ガイドにその写真を見せたら、大岩壁の情報が得られるのではと期待していたのです。

 
         
 
       
       
 
         
   

多くの指を失い、一旦は岩を登ることを諦めていましたが、再開したのです。復活したいとか、諦めたくないとか、という気持ちではなく、ただ無性に岩にしがみ付きたかったのです。まずは近場の御岳でのボルダリング、初心者が楽しむ10級のグレードでもとても苦労しました。右足は指を全て失っているので、岩に立ち上がる感覚が解りませんでした。また岩を掴むことも、小指と薬指を完全に失った結果、以前の握力50キロが、両手とも半分の25キロになり岩の傾斜が少しでも増すと苦労しました。しかしどんな小さな岩でも登りきった後の爽快感は、昔と変わりませんでした。

 
         
 
       
       
 
         
   

退院後、小さな山歩きから再開した。両手にストックを持ち、バランスを保ちながら足先を傷つけないように登った。奥多摩の高水三山、御前山、遠くは妙高山、屋久島の宮之浦岳など、ゆっくりと山道を踏みしめた。特に印象深かったのは、開放小屋を利用しての飯豊の山々だった。いつの日か雪に覆われている時期に縦走したいと考えていた。

 
         
 
       
       
 
         
   

ギャチュンカンの登攀や今までのアルパインクライミングに対して2つの賞をいただいた。入院中は近くの公園に出かける以外は外出していなかったので、受賞そのものよりも外に行ける喜びの方が大きかったのは事実です。写真の僕(あの時の服はあれ以来着用していない)の隣は、マジックマウンテンの社長、国井治さん。

 
         
 
       
       
 
         
   

2002年秋、ギャチュンカン(7952m)で凍傷になり、夫婦そろって凍傷治療が出来る墨田区の病院に4ヶ月も入院することになった。その間、手の手術を1回、足の手術を2回行った。毎日たくさんの知人が見舞いに来てくれたので、充実した日々を過ごせてはいた。ある日、友人が鍋と野菜等をザックに詰め病院を訪れてくれ、僕の好物の焼飯を中華鍋いっぱいに作ってくれた。4ヶ月で一番幸せな時間だったかもしれない。

 
         
 
       
       
 
         
   

未踏の壁を手に入れたものの、僕らにとっては満足の登攀ではありませんでした。少し易しすぎたかもしれません。難しすぎても易しすぎても登攀に強烈な思い出は作れません。それでも初登攀ということで「ポーリッシュ、ジャパニーズピクニック」とクルティカがルートに名前を付けました。結局天候は安定しないのでラトック北壁を諦めることにしました。翌年の再挑戦へ向け、日本の若く優秀なクライマーを誘おうと、ある友人の顔を浮かべていたものの、その彼はアルプスで墜死と言う悲しい知らせを、パキスタンのイスラマバードで聞いたのです。

 
         
 
       
       
 
         
    天候が悪く毎日雪が降り、なかなかチャンスは巡ってきません。遠征コック歴30年というおじさんが作る食事に幸せを感じつつも、クライマーとしてのストレスは募る日々でした。そこでチョクトイ氷河の奥に聳えるビャヒラヒタワー中央峰(僕の本、垂直の記憶の表紙)に妙子を加え3人で挑戦することにしたのです。1人25キロの荷物を背負いクラックが発達した南壁に向かいました。スピードが要求させるようなアルパインルートではないので悪天候の中でもじっくりと攻めます。延べ6日間、最後の10メートルはまさしくナイフのような花崗岩の尾根、8月14日 僕ら3人は頂を手に入れたのです。  
         
 
       
       
 
         
    2001年夏、パキスタンのカラコルムのラトック1峰にクルティカと向かいました。これまでラトックの北稜には、腕に覚えのあるクライマー達が執拗に挑戦してきました(現在も成功した者はいない)僕ら二人は北稜の左に広がる北壁に目標を定めていたのです。1000メートル以上のミックス壁に600メートル以上の垂直の岩を持つヘッドウォール。技術的に困難さを求めるうえでは理想の課題を提供してくれています。僕らは大量のロックピトン、カム、アイススクリュー、そして何処でも寝られるようにとポーターレッジまで用意しました。気温が低くなり落石の危険が少なくなると思われる8月に登ろうと考えていました。  
         
 
       
       
 
         
    頂では15分ほど留まっていただろうか。
(時間の記憶がない)
足下には、中国の6000mほどの小さな山が無数に広がっていた。山々の中には格好の良い峰も見ることができ、薄い酸素の影響からぼんやりする頭で考えていたのは「小さな山にも素晴らしいのがある。けして標高で山を選んではいけない」そんなことを安定しない頂に座りながら漠然と考えていました。
 
         
 
       
       
 
         
   

クルティカはポーランドに戻ることになり、僕は一人で南南東リブから挑戦することにした。(このルートから頂へ単独で成功したクライマーはいない) この当時は高所でのスピードには絶対的な自信があり、また薄い酸素に長時間も身体をさらすよりは、速攻登山が安全につながると考え、ほとんど休みなく、正しい腹式呼吸を保ちながら足を前に進めた。その結果、ベースキャンプを出発してから48時間後、8611mの世界第2位の峰に到達した。

 
         
 
       
       
 
         
   

2000年の夏、憧れのK2に向かう。それもクライマーがほとんど足を踏み入れたことのない東面を、クルティカと二人でアルパインスタイルで挑もうと企てたのだ。危険なクレパスだらけの氷河を慎重に進み到達した東面は、予想以上に壁の状態が悪く、家ほどの大きさの雪の塊が幾つも尾根にぶる下がり、雪崩の発生する可能性が大きかった。それに加え、天候も安定しないので、第一目標の東面を潔く諦めることにした。この壁は現在も登られていない。

 
         
 
       
       
 
         
   

北壁の登攀はとても厳しいものでした。寝る場所も確保できないと考えられたのでビバーク道具を持たず登り続けました。頂までは、そんなに遠くではなかったと思います。しかし天候は急速に悪化し北壁全体が雪崩の引き起こすくらい危険な状態になったのです。この時ネパールは大雪に見舞われ大きな被害が出たようです。 僕らは残念ながら下降するしか選択の余地は残されていませんでした。帰国前、クルティカとお茶を飲みながらゆっくりと今後のことについて話をしました。次の年も一緒に山に行こうと。

 
         
 
       
       
 
         
   

僕とクルティカが狙った6500m峰の正式な名前は解りませんでした。僕らは斧で切り落としたような鋭い山の形から、勝手にアックスと呼ぶことにしました。予想どおり北壁はとても切り立っていました。僕と彼は初めてロープを組むのです。また言葉や文化の違いもあります。しかしクライミングへの考え方が一緒なので問題は全く生じることはありませんでした。

 
         
 
       
       
 
         
   

1999年は3度の海外登山を行いましたが、秋のネパールは僕のクライミング人生においても特別なものになりました。パートナーが憧れのポーランドのクルティカだったからです。クルティカと言えばチャンガバン南壁、ダウラギリ東壁、ブロードピーク縦走、トランゴタワー、チョーオユ南西壁などヒマラヤの大物を厳しいラインから、アルパインスタイルで攻略してきたクライマーなのです。前年に招待を受け来日したクルティカと僕はクライミングスタイルが似ていることもあり、すぐに意気投合しました。99年の夏、電話やファックスで何度もやり取りし、ネパールの未踏の北壁を挑戦することにしたのです。

 
         
 
       
       
 
         
   

上部に到達すると斜面は急になり、岩も難しくなり、登るスピードは遅くなりました。はたして時間的にも、また持っている装備だけで頂まで行けるのかが少しは不安に感じてはいましたが、バインターブラックやラトックなどの憧れの難峰を眺めながらの爽快なアルパインクライミングになりました。

 
         
 
       
       
 
         
   

写真はソスブン氷河で2つ目に狙った6000mの未踏峰で赤線が登攀を予定していたラインです。この山には名前も付いていませんでした。形がまるでネパールの名峰ジャヌーに似ていることもあり、僕たちはジャヌーもどきと呼んでいました。狙いはテントも寝袋も持たず僅かな装備だけでノンストップで頂を往復しようというものでした。僕たちは30時間以内では戻れるだろうと考えていました。

 
         
 
       
       
 
         
    1999年、標高は低くても美しい未踏峰を目指してパキスタンとネパールで活動しました。登山隊がほとんど入ることのないパキスタンはソスブン氷河、ソスブンタワーと言う未踏の岩壁に挑んだものの、夜寝ている時にポータレッジ(岩壁用ベット)のパイプが壊れてしまったので遭えなく下山しました。写真は一人30キログラム以上のバックを引っ張りながらベースキャンプに戻る様子です。  
         
 
       
       
 
         
    僕らはマナスルで巨大な雪崩に巻き込まれた。300mは、落とされたただろうか。雪の中から出られたのは奇跡に近いかもしれない。膝や足首を捻挫し、複雑で危険な氷河は這ってベースキャンプに戻るしかなかった。当たり前のことだが、危険だと感じたら敗退する勇気が必要だった  
         
 
       
       
 
         
   

マナスルの北西面を知る者はほとんどいない。写真などの資料も乏しくアプローチでは藪を切り開きながらベースキャンプを目指した。ベースキャンプから見上げるマナスル北西壁はとても怪しげで雪崩の発生する可能性が大きかったが、野心からだろうか挑戦を諦めようとしなかった。

 
         
 
       
       
 
         
    未踏のクスムカングル東壁、標高差1200mの氷と岩で構成された切り立った壁をソロで挑戦した。ロープを一度も使うことなく完全なフリーソロ、僅かなミスも許されないクライミングを20時間以上続け頂に夜中に到達した。  
         
 
       
       
 
         
    世界で一番美しいともいわれるペルーアンデスのアルパマヨ。ポピュラーな南西壁は温暖化の影響か崩壊が繰り返されている。頂上に何故かブラジャーがアイススクリューに結わえつけられていたのには笑った。僕はペルーアンデスを気に入り、2年後の1999年も行くことになるが、それにしても日本からは本当に長い旅になる。  
         
 
       
       
 
         
   

1997年、初めてのペルーアンデス。海外で住んでみたい街はと聞かれれば僕はペルーのワラスと答えるでしょう。美味しい食事と素朴な人々、そして美しくも鋭い5000m以上の山々が町を取り囲んでいるのです。

 
         
 
       
       
 
         
   

体調を整えマカルー西壁にアタックしたものの、核心部7800mに到達する前に落石を受け敗退しました。怪我によって諦めたというのは正しくないと思います。テクニック、スピード、パワー、そして精神面でも西壁を登るだけのものを持っていなかったのは確かでした。どのようなトレーニングをすれば能力が上がるかは分からないままでした。

 
         
 
       
       
 
         
   

96年秋 体も万全に整え、ウエアーについたロゴマークを外し、ホークを半分に切るなど考えられるぎりぎりまで装備を軽量化を図りマカルーベースキャンプに入った。しかし精神的にも準備ができていると思ったのに巨大な西壁を見上げた時、僕は完全に圧倒され登りきるのは無理なのではと密かに感じてしまった。

 
         
 
       
       
 
         
    ヒマラヤに残される最大級の課題であるマカルー西壁。標高7800mから頂上の8400mまで垂直の岩壁が広がり困難が予想される未踏の壁だった。何とそこに僕は96年秋、単独で挑戦する計画を立てたのだ。日本ではトレーニングとして5.10を何本もフリーソロし、冬の岩壁も単独で登り込んだ。また持久力を試すため冬の南アルプスで竹宇〜甲斐駒岳〜仙丈〜塩見岳〜鹿塩などを2日で歩くなどした。  
         
 
       
       
 
         
  1   95年の秋はネパールに向かった。翌年に考えていたマカルー西壁への偵察だった。普通歩かれるトレッキング道は使わずナムチェバザールから5780mのアマラプツァ、6135mのウエストコル、6100mのシェルパニコルの3つの峠を妻と二人でツッアンパ(麦こがし)だけの食事で腹を空かせながらマカルーのBCまで歩いたが、静かで少々厳しい旅を満喫した。  
         
 
       
       
 
         
  1   ブブリモティンをついに登りきった。8日分の食料しか用意してなかったのに12日間もかかったため、まるで断食のように痩せてしまったと言うことで初登攀したルートに「ラマダン」と名前をつけた。ナイフのように薄く壊れそうな頂で僕は逆さになって記念撮影をしたのだ。  
         
 
       
       
 
         
    8日分の食料にガス、膨大なクライミングギアを背負い頻繁に落石がある危険な氷河を登り岸壁に取り付いた。クラックの発達が悪く難しいフェースクライミングを何度も強いられ登攀スピードはゆっくりだった。しかしチームワークはほぼ完璧で厳しい登りながらも垂直の旅を楽しめた。  
         
 
       
       
 
         
    1995年夏、パキスタンは桃源郷として有名なフンザにそびえ立つ岸壁に3人で挑戦した。女性の指のように細いから、あるいは野菜のオクラのようだからかブブリモティン、別名レディースフィンガーと言う名が付く難峰だ。イギリスなどの強力なクライマーが挑んでいたが正面のビッグウォールからは登られていなかった。  
         
 
       
       
 
         
    エルキャピタンでの寝床。組み立て式ベッド、ポターレッジの上で寝る準備をする。装備を落とさないように、自分も落ちないように気をつけなければならない。下を見れば素晴らしい高度感で公園内を走る車は本当に小さく見えた。こんな場所での食事の時間は最高のひと時だった。  
         
 
       
       
 
         
    エルキャピタン ロストインアメリカ。有名な人工ルートでA5というグレードがつけられていた。もしも道具にセットなどを誤れば30メートルは落ちたのではないだろうか。ドキドキしながら喉をカラカラにしながらゆっくりとしか進むしかなかった。特殊な登りではあるが当時は面白くて仕方がなかった。  
         
 
       
       
 
         
    久しぶりのヨセミテの大岩壁エルキャピタン。30ピッチ、5.13のサラテルートをなるべくフリーで試みた。しかし実力のなさから完登したものの5.11までしかフリーでは登れず、それより上のグレードの箇所では人工に頼るしかなかった。もっとフリークライミングが上手かったら、早くそして楽しく登れただろう。  
         
 
       
       
 
         
    チョーオユのベースキャンプで。左から僕、妻、遠藤由加。女性パーティーはポーランド スイスルートの第2登を、僕は新ルートから成功した。全員、身体は消耗し体重は極端に落ち、加え筋肉までも失ってしまった。シェルパもコックもいない登山だったが、全てがシンプルでまた楽しく終わらすことができた。  
         
 
       
       
 
         
    チベット チョーオユ南西壁に向かう。8000m峰の新ルートを単独、アルパインスタイルで挑戦した。頂までの60時間は低酸素、低温、孤独感に加え技術的問題の含んだ厳しい登攀になった。しかしこれほど強い感激を味わったのは、数多い登山の中でも少なかった。  
         
 
       
       
 
         
    1994年 夏 マッターホルンの頂で。秋のチベット登山のトレーニングのため7年ぶりにシャモニーとツェルマットに行った。マッターホルンは北壁から成功したが、パートナーの妻は落石が肩に当たり1日で登攀する予定がビバークを余儀なくさせられた。  
         
 
       
       
 
         
    4峰敗退後、2峰8035mに登頂した。4峰に比べたら散歩のようなものだったが、頂では素晴らしい展望を得られた。左奥には台形のチョゴリザが見えている。  
         
 
       
       
 
         
    ガッシャブルム4峰に新ルートを目指し東壁に単独で向かった。傾斜70度。欠けやすい黄色い岩と柔らかな雪に悩ませられながらも7000m付近まで前進した。しかし悪天候に加え、仮に頂に立っても無事に下山する自信がなくなりはじめ諦めることにした。標高が高いところでアルパインスタイルで挑戦するには下山について深く考えなければならないことを教わった。  
         
 
       
       
 
         
    1992年夏 パキスタンはガッシャブルム峰に向かった。左奥に見えるのが難峰で有名な4峰、標高は7925m。8000mには少し欠けるが、山容が素晴らしく、いつかは挑戦してみようと思っていた。しかし取りつくには単独では大変危険なクレパスだらけのガッシャブルム氷河を進まなければなかったのだ。  
         
 
       
       
 
         
    下山後、ブロードピークのノーマルルートだけの登山では満足できなかった僕は、新たに日本から来たメンバーとキャシードラルの大岩壁に挑戦することにした。標高差1500メートル近くあるが、岩は少々脆そうだったのだ。  
         
 
       
       
 
         
    ブロードピークの頂上で。薄い酸素に意識はもうろう。最終キャンプから半日以上かかっての到達だった。目の前にはあこがれのK2が聳え立っていて、いつの日か挑戦することを誓った。  
         
 
       
       
 
         
    コンコルディアからのブロードピーク。初めての高所登山は、酸素ボンベは使用しないものの沢山のメンバーでの挑戦になった。体力的なことや高所医学など、いろいろ学ぶ事の多い登山になったと思う。  
         
 
       
       
 
         
    91年夏、ついに長年憧れていたカラコルム。僕らはブロードピーク8051メートルの頂を目指して、長いキャラバンを開始した。乾燥した茶色の台地、巨大な花崗岩の岩壁群、強靭な地元のポーター達、どれも驚くことばかりのベースキャンプへの道のりだった。  
         
 
       
       
 
         
    91年の冬には、日本登攀クラブのメンバーと韓国の有名な、大氷爆トワンソンにも行った。一週間も滞在しなかったと記憶しているが美味しい食事と暖かな宿、そして何より良質の氷に満喫できた旅だった。  
         
 
       
       
 
         
    91年、この頃、アイスクライミングばかりに凝っていた。八ヶ岳、南アルプス、谷川岳と色々なルートを登りに出かけた。
それも1人で、ロープを付けないフリーソロばかりだったと思う。当時が最も危険な時期だったかもしれない。
 
         
 
       
       
 
         
    1990年 再びパタゴニアのフィッツロイ。
岩壁は薄い氷に覆われ極端に難しかった。
登攀を開始し3日目ついに頂きに到着。
フィッツロイの冬季単独初登攀に成功したのだ。
 
         
 
       
       
 
         
    89年 パタゴニアを後にして1人ブラジルを目指し北上する。
写真はイグアスの滝での観光。
旅はヒッチハイクとローカルバスでの移動だった。
黄連谷に聳え立つ坊主岩の冬季登攀。
友人と二人、3日間で2本の困難なルートを成功させました。
吹雪で視界は悪かったものの、自分たちの成功に気持ちは晴れ晴れとしていました。
 
         
 
       
       
 
         
    パタゴニア フィッロイ。1989年
めったに晴れることのないパタゴニアで、あえて南半球の冬(6,7,8月)に一人で挑戦した。
−30度の気温 風速30メートルの風、それに強い孤独感に負け敗退。
 
         
 
       
       
 
         
    南アルプス。
黄連谷に聳え立つ坊主岩の冬季登攀。
友人と二人、3日間で2本の困難なルートを成功させました。
吹雪で視界は悪かったものの、自分たちの成功に気持ちは晴れ晴れとしていました。
 
         
 
       
       
 
         
    冬の富士の強力。
88年、友人の代わりに2度ほど登りました。
その後、この仕事には1991年からは専属になり、2002年までの10年間で250回以上登ることになったのです。
重さ30kg以上の荷物を冬の山頂まで運び上げることは容易くはありませんでした。
 
         
 
       
       
 
         
    イタリアはドロミテのチベッタ北西壁。
ビバーク装備をちゃんと持っていかなかったので寒い寒い時間を小さなテラスで過ごさなくてはなりませんでした。
1987年、21歳の秋。
 
         
 
       
       
 
         
    シャモニーからドロミテでの登攀を目指して、イタリアはコルチナにヒッチハイクで向かった。
灼熱の中、3日間の長い旅だった。
 
         
 
       
       
 
         
    ロサンゼルスで皿洗いなどの仕事を行い、その後フランスはシャモニーに渡った。
シャモニーではキャンプ生活ではあったが、お金を節約するため古くなって売り物にならなくなったフランスパンなどをもらって来ては食べていた。
 
         
 
       
       
 
         
    1986年 ヨセミテ国立公園。
初めて有名なビッグウォールエルキャピタンに成功。
不慣れなため苦労は多かったものの、この登攀でビックウォールクライミングに魅せられてしまった。
 
         
 
       
       
 
         
    アメリカでの怪我のため左足は痛かったが、オーバーハングのルートならばそれほど足に負担にならないので登っていた。それにしても10代のときは怪我が多く、前歯を八ヶ岳で失い、城ヶ崎では左腕を骨折しているのだ。
写真)86年2月21日
 
         
 
       
       
 
         
    2回目のアメリカではコロラド州で登っているとき落石で左足首を複雑骨折してしまった。
ボルダー市の病院で入院したが、水分を採ったほうが良いと看護師がコーラを持ってきたのには、さすがアメリカだなと感じてしまった。
なお、リハビリには6ヶ月を必要とした。
 
         
 
       
       
 
         
    最初のアメリカ行きからの帰国後、同年代の友人達と城ヶ崎海岸でルート開拓に励んだ。
毎週のように電車代をキセルしては伊豆に向かい、登られていない課題を見つけては騒がしく登った。
あまりにも怪しげなルート名のために山岳雑誌の人に注意された事も・・・
 
         
 
       
       
 
         
    ヨセミテのルートで最大の目標だったセパレートリアリティ5.11dは2日目の挑戦で成功。
その他、数え切れないぐらい沢山のルートを登りましたが、確か有名なバターボール、クラックアゴーゴーなどはオンサイトしていたと思う。
昔は優秀だったかな?
 
         
 
       
       
 
         
    ヨセミテでは休むことなく毎日登っていました。
お金を節約するためにシャワーは1週間に一度、夜は空缶拾いをしてリサイクルセンターで換金(1個5セント)カフェテリアでは他人が残した食事を見つからない様に食べていました。
 
         
 
       
       
 
         
    1984年、高校卒業後、憧れのヨセミテ国立公園へ向かいました。
写真はヨセミテ初日、それも1本目のルート、ロンリーダンサー5.10dです。
この後、4ヶ月、アメリカでのクライミングだけの生活が始まりました。
 
         
 
       
       
 
         
    高校時代の僕の部屋。
超人メスナーと第3の高峰カンチェンジュンガのポスター。
読むものは雑誌、岩と雪。
柱にはクライミングの練習のために木片を打ち付けていた。
 
         
 
       
       
 
         
    16歳のとき、冬の富士山で。右が僕です。
ダウンジャケットも寝袋も使わず8合目でビバークし耐寒訓練しました。
まったく眠れなかった記憶があります。
 
         
 
       
       
 
         
    クライミングを始めて1年ぐらい?
高校1年生のときだと思う。自宅近くの石垣で。
道具はトロールのハーネス、運動靴、
黒板に書くチョークをすべり止めとして使用。
当時は毎週のように登っていた。
 
         
 
       
       
 
 
       
   
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