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   フランスの登山家が話題になるとき、まず名前が挙がるのがガストン・レビュファだろう。一流のクライマーとして。そして、あの名著『星と嵐』を残した人として。
 その「まえがき」の中で彼は、前奏曲としてビヴァーク讃歌を奏でる。「ビヴァークする者は彼の肉体を山の肉体と結合させるのだ」と。そして上に掲げた一節が続く。アルプスと日本の山では舞台は異なるとはいえ、山へ向かう心に違いはない。大きい山・小さい山、壁や溪谷が四季折々に差し出してくれるさまざまな恵み、憧れ、歓喜、陶酔を味わい、そして時に自然の容赦ない試練をも甘受すること。食べ物と同じように、山にもたくさんの〈料理〉と〈味〉がある。喰わず嫌いはもったいないではないか。レビュファはそう言いたいのだろう。そう、同じく「まえがき」に曰く「登攀機械であってはならない」のだ。
 
     
   
     
   
     
   危険で困難な登攀を果敢にやり遂げてきた自負と誇りがある古川氏からみれば〈ハイカー〉のような人が、あたかも立派な登山家(アルピニスト)としてもてはやされる──。そんな、どこかの国の登山界へのいらだちが言わせたことばだろうか。同書中の、彼ならではの次のような警句も心に響く。
「気をつけなきゃいけない。遭難は自分の心と技術の隙間にあるのだ」
「山には文明はないんだ」
 本を読まなくても山には登れる。だが、クライマーを自称し、アルピニズムを饒舌に語りながらも、昭和三〇年代初期に始まった初登攀の黄金時代を記録した三部作、吉尾弘『垂直に挑む男』(山と溪谷社1963、中公文庫『垂直に挑む』1980)、松本竜雄『初登攀行』(あかね書房1966、中公文庫1979)とともに、この『わが岩壁』(山と溪谷社1965、中公文庫1980)を読んでいない人、ましてや「そんな本、知らない」人にもし出会ったら、私はちょっとうろたえてしまう。
 
     
   
     
   
     
   いま登山用語は急速に英語ベースに切り替えられつつある。だがオールドクライマーにとってはやはりロープよりザイル。そう、〈 ザイルのトップ 〉なのである。
 小森氏は前出の古川純一氏のザイルパートナーとして数々の修羅場をくぐり抜けてきた人。彼らのクライミングを支えていたのは、お互いの深い信頼と、そしてザイル。
古川氏の言うように「アルピニズムの行為における困難は、すべて墜落の危険を克服
するか脱するために生じる」(『わが岩壁』)のであり、そこにおけるザイルの存在は絶対だ。たとえ落ちてもあいつがザイルで支えてくれる。そういう思いに支えられてこそ次の一歩を踏み出せた登攀が、百戦錬磨の両氏にとってもたくさんあったにちがいない。〈 ザイル仲間 〉。いいことばである。
 同書から、味わいある言葉をもうひとつ。「百聞は一見に如かず、そして一見は一触に如かずだ。実際に取り付いてしまえばなんとかなる。いつもの考えが私の中に広がってくる」
 
     
   
     
   
     
   あちこちを旅した尾崎喜八が、もしそのことによって富んだとしたら、書く行為がともなっていたからだろう。書くことによって、その旅が熟成されていく。
 彼と違ってぼくらの<書く>は、自分だけしか判読できないメモのようなものでもいい。文字にされなかったことはすぐに忘れてしまう。一冊のノートが、あの山この山の思い出を、いつまでも豊かなものにしてくれる。そして、富む──。
 
     
   
     
   
     
   登山はあくまで恣意的行為だから、山へ行く動機は千差万別、登山者の数だけあるのだろう。だがそもそもの始まりは、<山のあなたの空遠く「幸(さいはひ)」住むと人のいふ>で始まるカアル・ブッセの詩「山のあなた」(上田敏訳詩集『海潮音』収載)に見事に表出された「憧れ」の心情に駆り立てられるからではあるまいか。憧れが旅を生む。それが「人はみな旅人か」となる。旅のかたちはさまざまだが。
 ちなみに、大槻文彦が編纂した『言海』では旅を次のように定義している。<家ヲ出デテ遠キニ行キ途中ニアルコト>。途中ニアルコト……が言い得て妙である。
 その途中にあって何をか嘆き何をかいたみ、憧れの峰を越えても、しかし、私たちはいつの日にか帰ってこなければならない。いつまでも「そぞろひとり浮き寝の旅路 あすはいずこの峰ぞ」というわけにはいかない。
 旅とは、漂うことにあらず、帰るためにある。そういうものかもしれない。帰ることによって、また次の旅が生まれるのだから。
 
     
   
     
   
     
   1957年3月29日の谷川岳一ノ倉沢滝沢。夕刻、吉尾 弘・原田輝一パーティーは稜線まであとわずかに迫っていた。積雪期初登攀の栄えある名誉はすぐそこだ。しかし目の前には困難な雪壁が立ちはだかっている。万一墜落したら本谷まで飛ばされて、死は確実だろう。それでも、クライマーであれば「ザイルのトップ」のプライドにこだわりたい。吉尾は「一度は直登してしまうつもりで、稜線の下三メートルの所まで迫った。だがそこは、確保なしで登るにはあまりに冒険だった」(本書から)。この言葉に続いて、上に掲げた彼の信念が語られる。そして「私の信念は押さえがたい名誉欲を押さえた」のである。
 このようにして若き日の数々の果敢な冬期登攀を生き延びた吉尾 弘も、2000年3月13日、谷川岳一ノ倉沢滝沢リッジで墜落死した。享年六二だった。
 あまりに多くの人の山での残念な死を想うとき、そのひとつひとつの「登山行為の中に占める安全率の度合い」を、それぞれの登山者は心のなかでもっと真剣に算定すべきではないだろうかと願わずにはいられない。
 
     
   
     
   
     
   頂上とは不思議な場所である。たかだか土、岩、あるいは雪の塊にすぎないこの一点が、登山史をひもとけば、初登頂という輝かしい栄光と名誉、あるいは醜い争いを生み、そしてあまたの人の命を奪ってきた。
 困難な高峰登山では、生と死の分岐点はその人の山の練度に応じて上方にのびていく。山野井氏のような優れたクライマーにとってその分岐点は、おそらく、頂上のちょっと手前なのだろう。だが、その<ちょっと>のなんと遠いことか。
 逡巡と葛藤の果てに生に背を向けてさらなる一歩を踏み出すとき、彼の頭にあるのは頂上の一点のみ。そこに立って、はじめてその登山は完結するのだから。頂上に迫る過程がどんなに素晴らしかろうと、頂上に立てなかった登山は虚しく、いつまでも悔いが残る。そう、頂上は重要なのだ。
 そしてもうひとつ、これは自戒を込めていうのだが、どのような登山であれ頂上を見据えなくなったとき、登山者としての堕落が始まるのではあるまいか。
 
     
   
     
   
     
 
   どうしても登れなくなって、やむなくハーケンを打つ。「カキーン、カキーン」と金属音を上げて確実に岩の割れ目にくい込んでくれるとき、そして、そのハーケンに確保されたときのあの安堵の気持ち、さらに、そのハーケンにすがって登り出すとき――。
 ルート開拓で打ち残されたハーケン類には、遊び半分で打たれたものなんか何もない。それは恐怖から逃れるために、必死になって打ったものなのだ。
 よく登攀記録を読んでいると、「必要以上にハーケン類が多く云々……」という文字がよく目につく。こういう輩は間違いなくルート開拓をしたことのない人間である。そのくせ冬期初登攀なんて記録の持ち主であったりする。だいたい、初登攀なんて一つのルートに一度しかあり得ないものなのだ。一度登られたルートは冬期であろうと、条件が変わっているからだろうと、すでに謎の部分はないのだから。
 私は敢えて冬期初登攀をしたいとは思わない。そのかわり、どんなルートでも登り始めたら未知のルートを登るときと同じように、全身全霊を傾けて登攀する。そして、はたして初登攀者が打ち残したものであるかどうかは別にして、目の前に残置してあるハーケンを見るとき、それを打ち込んでいった登攀者の気持ちが、未知のルートで私が打ち込んだ、あの恐怖から逃れるときの気持ちとおそらく同じであったろうと思いながら、眺めるのである。(井上進)
 
  『長い壁・遠い頂』(神無書房1979)から。  
 
     
   いまはカムやナッツなどナチュラルプロテクションの時代。ハーケンを打ったことのない、というよりさわったことすらない若いクライマーもたくさんいることだろう。もう山道具絶滅危惧種なのかもしれない。だからこそか、山の店で片隅に黒い鈍色を放っているクロモリのハーケンを見つけると、ああ、どっこい生きているとうれしくなる。
 オールドクライマーならだれもが経験していることだろうが、長いランナウトの先にやっと見つけたハーケンは愛おしいものだ。落ちれば死ぬかもしれない垂壁にへばりついている者に、たった一本の小さな金属の支えがもたらしてくれる大いなる安堵。そこからまた、じわりじわりと次の一歩が始まる。
 クラシックルートに残されたどのハーケンにも、それを打った人の、そのときのさまざまな心情がこもっている。だから、ルート整備と称してむやみにハーケンを抜いてしまうのはやめよう。上手なアナタは無視すればいいのだから。
 
     
   
     
   
     
   ジョン・ハントは1953年にエベレストに初登頂したイギリス隊の隊長。上の引用は孫引きだから、どういう場面での発言なのかはわからない。
 なぜ山に登るのか。長く山登りをやっていると、ましてや冬山ともなると、だれもが一再ならずこの質問を受ける。いまさらマロリー風に「山がそこにあるから」なんて科白を吐くのはちょっと気恥ずかしい。そこでこんどはハント風にやってみたらどうだろう。相手は、なんて失敬なやつだと気を悪くするかもしれないが……。
 いちばん困るのは、山の中でもそういう質問をする人がいることだ。
 
     
   
     
   
     
   クジーはフランスの登山家。1950年に人類初の8000m峰登頂を果たしたアンナプルナ隊に最年少者として参加し、1955年のマカルーでは第一次アタック隊でリオネル・テレイとともに登頂している。
 この「ドリュー」は、ルネ・ドメゾンと組んで挑んだ1957年3月の同壁冬季初登の記録。厳しい状況のなかで進むか退却かの判断を迫られたとき、「僕らは二人合わせて6人の子持ちだ。それに─」に続いて冒頭の言葉が出てくる。
 アルピニズムに殉じた人、家族を想って退却した人。山という舞台でも、いろいろな人生があるのだ。
 
     
   
     
   
     
   ネパール・タンボチェのエベレストを望む小さな丘に、この碑文が刻まれた加藤保男と小林利明のレリーフがある。二人は1982年の冬にエベレストから還ってこなかった。それ以前も、その後も、<彼等、「挑戦者」>たちは山で生命を落としつづけている。ある人が、「いったい何人山で死んだのか指折り数えてみたら、両手では足りなくて、両手が二回でもまだ足りない。自分のまわりをみても、あの人もいない、この人もいない。もう、ほんとにいませんのでね」と嘆息していたように。
 これではまるで、<そして登り、死ぬ──彼等、「挑戦者」>ではないか。同じく上田哲農がいっているように、「修練ではどうにもならないというものの支配を、クライマーは断ることができない……」のであろうか。そうかもしれぬ。そうでないかもしれぬ。「挑戦者」がいるかぎり、その答えはいくつもあるのだろう。
 
     
   
     
   
     
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